【自分史第2版】小田桐あさぎさんの魅力覚醒講座を受けて生き方が変わった話

自己紹介

前回更新から少し時間が経ったので、自分史を更新しようとしたら、親への見方がだいぶ変わったなと感じたので、比較のためにも改めてリライトしてみた。

ちなみに前回の自分史紹介記事がこちら。

特に中学時代あたりは、親への恨み辛みでいっぱい・・・。

でも今はもっともっと感謝の気持ちがもてるようになった。

自分がどんな世界で生きるかは、自分次第。

恨み辛みがいっぱいの世界で、人を疑いながら生きるか、

愛に包まれた世界に感謝して、人を信頼しながら生きるのか。

同じ人生を生きていても、自分で自分の生きる世界は選べる。

決められる。

  1. 仲良し3人きょうだいの長女として生まれる
  2. 絵本の読み聞かせで育った幼少期とモンテッソーリ教育
  3. 図書室に引きこもって児童書を読む小学校時代
  4. ジャンプにハマって同人活動に励む中学時代
  5. ドラマやアイドルに熱中してさらにオタク化する高校時代
  6. 書店でバイトし彼氏と遊びまくった大学時代
  7. 読書で腰痛が改善!本で人生を変えた初めての出来事
  8. 就職難の時代に無気力、だからこそ選べた出版の道
  9. 一番楽しい学生時代を過ごした雑誌編集の専門学校
  10. 雑誌編集の仕事は忙しいけど刺激がいっぱい
  11. 震災を機に無計画で念願の東京へ。新聞記者になる
  12. 教会へ行き、毎日ちょっとずつ聖書を読み始める
  13. 見せかけだけのいい人になろうとしてもがく20代後半
  14. 福岡に帰り罪悪感を消すための奉仕に精を出す
  15. 自分の意思を完全無視して、本と出版から遠ざかる
  16. 正しいことをしているはずなのになぜか状況は悪化
  17. 腎部尿管移行部狭窄症が発覚、1回目の手術
  18. 痛みへの不安と悪くなっていく体調で2度目の限界
  19. そして私は恋をした
  20. 2回目の手術、聖書が唯一の支えになる
  21. 外に出られなくなったけどブログを立ち上げることができた
  22. コールセンター派遣で不眠、うつ状態で性格も激変
  23. バイトさえ決まらない中、静岡移住を決意
  24. 心からの願い「幸せになりたい」をキャッチ
  25. 本を読み、書き、実践。健康とパートナーを手に入れる
  26. 転職失敗でうつ病に舞い戻る
  27. アウトプットを意識した読書法で心の勉強
  28. 成功している女性起業家の本にたくさん出会う
  29. 小田桐あさぎさんの「ちゃん卒」本との衝撃的な出会い
  30. 就職に再び挑戦するも1ヶ月で挫折
  31. 魅力覚醒講座のキモ「罪悪感ワーク」「親ワーク」に真剣に取り組む
  32. 講座終了後、自分が本当に心地のいい生き方を模索

仲良し3人きょうだいの長女として生まれる

私の地元は福岡県。

都市の中心部にも電車で10分ほどで着くような割と都会で育った。

3人きょうだいの長女で、下に弟と妹。

母は短大で家政学を勉強していて、育児についても学んでいた。

だから私はよくある「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と、言われた記憶はない。

母いわく、年功序列で、親が先に生まれた方を優先することで、上の者が下の物を大切にすることを自然と学び、きょうだい仲がよくなるらしい。

その子育ては正解だったみたい。

子どもの頃はケンカもしたけど、3人きょうだい、今はすごく仲が良くて、ふたりとも私をとても大切にしてくれるし、私にとっても弟と妹は唯一無二の宝だ。

また、父は子どもの頃、弟を病気で亡くしている。

その時、弟とケンカばかりしていたせいだと、自分を責めたらしい。

だから私たちに対しても「きょうだい仲良く」の気持ちはとても強かったように思う。

また、父方の祖父からもよく、ケンカするなと言われたのを覚えている。

私たちにとってきょうだい仲がいいことは、普通のことだった。

と、いうより最近まで特に仲がいいとも思ってなかった。

でもいろんな人の話を聞くうちに、弟と妹が結婚した今でもちょくちょく電話したり、遊びに行ったりできること、妹には特になんでも打ち明けれること、などは仲がいいってことなんだな、とわかるようになった。

こうなれたのも、祖父母、両親を含め家族ぐるみで「きょうだい仲良く」の教育体制が整っていたおかげ。

血を分けたきょうだいってのは、自分が欲しいと思っても手に入るもんじゃないから、3人も産んで、仲良しに育ててくれたことに感謝が尽きない。

絵本の読み聞かせで育った幼少期とモンテッソーリ教育

覚えてないけど、赤ちゃんの頃は、絵本の読み聞かせで育ったらしい。

専業主婦の母は私が年中で幼稚園に入るまで、つきっきりで色々と手をかけてくれた。(らしい)

前述の通り、母は教育について知識豊富だった。

私たちきょうだいに「モンテッソーリ教育」を受けさせたいと考えて、それを実践しているカトリック系の幼稚園に全員入園させた。

私は幼稚園が本当に楽しかった。

折り紙を切って貼ったり、大きめのビーズを糸に通したり、いろんな工作や手芸を自由に選んで遊ぶことができたので、いつも夢中で色んなものを作ってた。

また、体操や水泳、ピアノなど、たくさん習い事もさせてもらった。

今でも続いているのは水泳くらいだけどね。

父方の祖母もよくプールに連れて行ってくれたし、父方の祖父も私たちきょうだいと従姉妹まで含めて5人をよく公園や旅行にも連れていってくれた。(だから、いとことも仲が良い)

今考えると、子ども5人を連れてお出かけするなんて、めちゃくちゃ大変なことだよね。

特に私は集団行動が苦手で、出かけたくないとよくぐずっていたから本当に大変だったと思う。

体力のある今ですら、私にはできる気がしない。

尊敬するし、本当に感謝しかない。

そして母方の祖父母もしょっちゅう動物園に連れていってくれたことを思い出す。

両親や祖父母は、家族総出で私にいろんな経験をさせてくれた。

子どもの頃、いろんな経験をできたことは、確実に今の私を形作っていると思う。

一方で、物心ついた頃から両親の不仲(私にはそう見えた)に、心を痛めていた。

疲れきって愚痴ばかりの母の姿が、とても苦しく感じられた。

図書室に引きこもって児童書を読む小学校時代

小学校に上がってからは、それなりに仲良しの友達もできたけど、どうもやっぱり集団行動が苦手で。

昼休みはよく図書館に引きこもって1人で児童書を読んでいた。

こまったさんのシリーズや、ムーミンとか。

特に海外の児童文学は今でも好き。

家から図書館も割と近かったから、たまに行ってたような記憶もある。

ジャンプにハマって同人活動に励む中学時代

中学に上がってからは、少年ジャンプにどハマりした。

ワンピースがものすごく流行っていて、セーラームーンとか、なかよしやりぼんの少女漫画しか知らなかった私は、少年漫画の面白さに一気に引き込まれた。

この頃、ハリーポッターやバトルロワイヤルが流行ったから、かろうじて、たまには小説も読んでたけど。

この頃は同人活動もはじめ、たくさん絵を書いていた。

本気で漫画家になりたかった。

絵やデザインを勉強するため、高校受験で芸術系の学校を受けたいと言ったら、家族中が猛反対。

両親はおろか、祖父や祖母まで。

特にその頃は父方の祖父の力が強く、彼の言うことは絶対。

私の味方をしてくれる人は誰もいなく、弟や妹もまだ小さい。

完全に心を閉ざすようになった私は、学校には行っていたけど、教室に上がれず保健室で過ごすことが増えた。

あの頃の絵に対する没入感は、あの頃にしかない貴重な感情だった。

それを思いっきり発出することができず、わだかまりになっていた。

絵なんかでは食っていけないと思った祖父の愛情だったと、頭では理解できるし、あの頃もそう説得された。

それでもなお、あの時、絵の勉強をさせてもらえれば…と考えることが多かった。

「十分に教育を受ける機会がなかった」

と、ずっと思っていた。

だけど、魅力覚醒講座を受けてから、その考えは変わっていった。

前述の通りに、私は幼少期にモンテッソーリ教育を受け、祖父母からもいろんな場所に連れていってもらい、通常の学校教育ではできないような十分すぎるほどの教育と経験をさせてもらっている。

なのに今さら、絵の勉強ができなかったくらいで何をグチグチ言ってるんだ・・・と、思うようになった。

さらに、ただ芸術学科に進むことを反対されただけで、別に漫画家になる夢を否定されたわけではなかったことにも気づいた。

高校は普通科に進んだ方が潰しがきくし、現実的だと思ったに違いない。

全ては、私に対する愛ゆえ、だったのよ。

ドラマやアイドルに熱中してさらにオタク化する高校時代

高校に上がったら漫画に加えて特撮やドラマやアイドルにハマるようになっていった。

ほとんど勉強せず、とにかくオタク化が進み、ボーイズラブにもハマって、それ系の小説を読んでいた(今は苦手になったんだけど…)。

親との関係も冷え込んでいて、父とはケンカになるのでほとんど話さず、とにかく家が嫌だった。

私の行った高校は中の中くらいの学校で、厳しくて有名だったけど、オシャレにあんま興味なかった私は服装規定を忠実に守り、生徒会に入って任務を淡々とこなすことで、独自のポジションを築いていた。

3年生になる頃には、ほぼ毎日遅刻、たまに風邪ひいたと親のフリして電話してサボったりしていた。

多少問題児だったけど、書類作成や先生たちの業務を生徒会が肩代わりしているので、あまり強く言われなかったんだと思う。

漫画、小説やDVDのためにお金が必要だったし、2年で卒業できる専門学校に進学したかった。

オタク友達もみんな専門だったし。

しかしここでも親の猛反対にあい、頼むから大学に行ってくれと言われた。

4年も就職できないのは辛すぎたけど、まあ、バイトすればいいかと受け入れた。

ここでもうちの親の教育熱心さが垣間見える。

両親は大学に行きたくないとのたまう私のために4年間の学費を全額負担した。

今の私からしてみれば、正気の沙汰じゃない。そんなお金出せない。

どれほど私を愛してくれたのか、子どもがいない今の私には、その深い愛情を想像することもできない。

書店でバイトし彼氏と遊びまくった大学時代

大学は地元の三流大に行ったけど、家に帰らず学校もサボって遊びまくっていた。

2年生のときに彼氏ができて、彼とは6年付き合った。

それが本当に不幸中の幸いで、彼がいなかったら私はもっと男にだらしない女だったと思う。

そんなこんなでお金が必要だから、ずっとやってみたかった本屋のバイトを始めた。

大手の本屋で、医学書の担当。

この仕事はすごく楽しかった。

この経験があったから、今があるようなもの。

やっぱりずっと、本にかかわっていきたいってこだわり続けているのは、この経験が大きい気がする。

読書で腰痛が改善!本で人生を変えた初めての出来事

大学に進んでからは、ジャニオタへと成長し、ライブに参戦しまくっていた。

そこに比例して、漫画や小説はだんだん読まなくなっていったように思う。

引き続き両親が嫌いで、私はすごく心が病んでいて、あとひどい腰痛持ちだった。

病院とか整体とか気功とか、色々試したけれど、一時はよくなって、また元に戻るので、根本的解決にはならない。

今思うと、両親も私の腰痛改善のために色々と情報を集め、手を尽くしてくれた。

そんな時出会ったのが、バイト先で見つけた「腰痛は<怒り>である」という本。

その頃は本当に1時間も座っていられないくらいだったから、ワラにもすがる思いで買って読んだ。

ここに書いてあったのは腰痛の原因は、体の歪みとか運動不足とかではなく、心(ストレス)だということ。

半信半疑だったけど、私自身、ものすごいストレスを感じていることは自覚していたので、当時大学で無料で行われていた学生向けのカウンセリングを受けることにした。

この効果は絶大で、本当に腰痛はなくなっていった。

当時の私は、親を敵認定していて、私が弟と妹を守らないといけない。と、勝手な使命感を感じていた。

当時私は東京で就職したかったけど、私が弟と妹のためにいないといけないから、家を出ることができない。と、思いこんでいた。

カウンセラーの先生は、あなたがいなくても弟や妹は自分でなんとかするんだよ。

そう、教えてくれた。

たしかにそれもそうだと思った。

印象に残っている会話はそれだけだけど、その後も何度かカウンセリングに通って、腰痛は劇的に改善。

現在でも、腰痛に悩まされることは一切ない。

思えばこの経験が、本が私にもたらした最初の大きな革命だったかもしれない。

就職難の時代に無気力、だからこそ選べた出版の道

大学の授業はサボりまくっていたので、4年生になってから必死で単位を取った。

ゼミの先生が物凄くいい先生で、ちゃんと卒業できるよう励まし、最後まで面倒をみてくれた。

就活は私にとってハードルが高くて、いくつか説明会みたいなのに申し込んだけれど、心が折れそうになった。

正直、どんな仕事がしたいかなんて分からない。

そして、私は東京に出たかった。

でも、それをやっぱり両親は許さなかった。

ふてくされて就活へのやる気も起きず、ゼミの先生に愚痴をこぼすとこう言われた。

東京に出たいならなぜ、必死で働いてお金を貯めなかったの?
親に反対されたって、やればいいでしょ?

ショックだった。

大学4年生はもう、20歳も超えている。バイトして自分でお金も稼げる。

先生の言う通り、自分の進みたいように進めば良かったのに、親の希望する方向にしか、自分は進めないと思いこんでいた。

ここへ来てわたしは大きな決断をすることになる。

大学を出ても就職せず、出版の専門学校に通うことにした。

この年、リーマンショックが起こり、友達が軒並み新卒切り(内定取消、条件になかった勤務地変更など)にあっていて、就活に対するやる気が全くなくなってしまったこともあり、それなら自分が本当にやりたいことを勉強してやろう!と、思ったこともある。

私が入った専門学校は、社会人として働きながら学ぶコースで半年で修了できる。

学費は頭を下げて親に保証人になってもらい、ローンを組んだ。

この時も親は賛成こそしなかったが、保証人にはなってくれた。

このときはなんとも思っていなかったけれど、保証人になるということは、私が払えなかったら、また全額払う気でいてくれたのだ。

思い起こせば、親に対する感謝が尽きることはない。

一番楽しい学生時代を過ごした雑誌編集の専門学校

専門学校は超刺激的で楽しさの極みみたいなところだった。

私はマガジンエディターコースで、メンバーは6名ほど。

半年で一冊のフリーペーパーを出すのが目標で、6人の編集部、意見をぶつけ合い、たまにケンカしながらも、お互いの才能を認めあって成長した。

先生や他の学部の人も面白い人ばかりだった。

サークルに入ってなにか面白いことをやろうと画策し、卒業パーティーも仕切った。

そして、最終的に出版社で編集の仕事を得られて、卒業と同時に働き出すことができたのは、私だけだった。

福岡で編集の仕事はとても少ない。

あの頃の私は本当に熱意があったし、運が良かったと思う。

実際、私は運転免許を持っていなかったのだけど、免許必須を知らずに応募し、面接担当者も見逃していた。

内定後に免許がないことが発覚したけど、働きながら免許をとることを条件に、無事入社することができた。

ちなみに免許を取る費用は、全額母が負担してくれた。

実は大学時代にも、免許を取ろうとして失敗し、自動車学校の学費を無駄にしたことがある。

だから私に免許を取らせるために、通常の2倍の費用がかかった。

雑誌編集の仕事は忙しいけど刺激がいっぱい

やっと仕事をはじめてからは、ますます刺激の多い毎日だった。

この1社目で多くのことを学び、失敗もして、経験を積ませてもらった。

社会人になってからは、雑誌を作っていたのに、忙しすぎて本を読むことはほとんどなかったと思う。

仕事として文章を書き、何度も読む作業をしていたので、プライベートでも何かを読むことが少しおっくうだったのかもしれない。

震災を機に無計画で念願の東京へ。新聞記者になる

編集の仕事をはじめて1年が経った頃に、活躍している先輩として、母校の専門学校に呼ばれることになった。

ときはちょうど、東北関東が震災でめちゃくちゃだった頃。

久しぶりに会った先生に、こう言われた。

不謹慎だが、今はお前にとってチャンスだ。

東京の人材が地方に流れつつある。

いつか東京に出たいなら、今行け。

この言葉に揺さぶられた。

今行かないと、もう行けないと思った。

親の反対も聞かず、会社を辞め、借金して東京に部屋を借り、もう2度と福岡に帰らないつもりで、東京に引越した。

無計画だったけど、必死に就活したら意外とあっさり仕事は決まった。

医薬品関連の新聞記者。

月給は少なかったけど、出版の仕事にしてはワークライフバランスもよく、ほとんど定時に退社していた。

お金が足りないので、夜はキャバクラでバイトもした。

この頃から、お酒をたくさん飲むようになってきて、今考えるとだいぶ依存していたように思う。

家でも外でも、毎日飲んでいた。

あと、ライブも相変わらず好きで、好きなアーティストを追いかけてよく行っていた。

教会へ行き、毎日ちょっとずつ聖書を読み始める

そんな日々を過ごしてしばらく経ったある時、Facebookで地元の友達が、無料のゴスペルコンサートの告知をしていた。

近くに住んでいるなら、久々に会いたいという気持ちもあって、そのコンサートに行くことに。

教会のイベントだったけど、彼女がキリスト教徒だと知っていたので、特に抵抗はなかった。

その時から、私はゴスペルにハマった。

ゴスペル音楽は本当に素晴らしくて、楽しくて、ライブのために金をつぎ込んでいた私は、こんな素晴らしいコンサートにタダで参加できることに感動した。

さらに、彼女の教会は国際色豊かで、日本語が堪能な外国人も多く、私が今まで経験したことのないような世界だった。

私はたびたび教会に行くようになり、聖書の話を聞くようになった。

そして、神が私を愛していることを知り、その教えに感銘を受け、信じたいと思い、洗礼を受けた。

このことは、私の人生の土台を根底から変えるインパクトがあった。

親の愛さえ信じることができず、愛など存在しない前提で絶望のなかを生きてきた私にとって、誰かから愛されてると思えたことが、生きる希望の光となった。

教会では徹底して聖書を読むことを教えられた。

毎日自分で聖書を読み、毎日記録する。

心に響いた箇所を抜き出し、神がなにを語っていると思うか、自分で書く。

そして生活に適用する。

はっきり言って、聖書は何千年も前の海外の書物だから難解すぎる。

こんな読み方では全くもって聖書で語られていることの本質を理解することはできない。と、今では思ってる。

だけど、この時期に身についた読書習慣が、後に私を助けることになる。

見せかけだけのいい人になろうとしてもがく20代後半

さて、聖書と教会にどっぷりハマった私は、次第に物凄い罪悪感に悩むようになっていった。

主に両親との不仲。

その頃の私は、両親の希望通りに生きられないこと=悪だと思っていた。

そして、教会の友達はみんなとても心が美しく優秀で裕福で豊かで完璧に見えた。

一方私は、収入も低く、親に反抗し、酒浸りで最悪な人間。

人と自分を比較し、劣等感もこじらせていった。

ついに私は罪悪感に耐えられなくなって、地元に帰り、できるだけ親の望む通りの生き方をすることを決意した。

私を教会に誘ってくれた彼女は、おかしな方向へ進もうとしていることを察知して、とても心配してくれたようだったが、私は自分の決断が正しいと心から信じていた。

これからはもっといい人間になれるよう努力しよう!

そんなこと教えられてもいないのに、私はそういう道へと突き進んで行った。

福岡に帰り罪悪感を消すための奉仕に精を出す

福岡に帰ってからも、系列の教会がちょうど福岡にできたタイミングだったので、そこに通い続けた。

私は罪悪感から逃れるために、必死でボランティアを頑張った。

私は他の友達より悪い人間。

でも、やればやるほど、そんな思いがいつも拭えない。

もちろん強制されてやっていたわけでもなかったのに、自分で自分を追い詰めていった。

教会では、「自分を変えなくていいんだよ」と、言われたことがあった。

でも、私は必死で自分を変えようとしてた。

他のみんなと違って私は特別悪い人間だから、私に限っては自分を変えないといけない。と、本気で思いこんでいた。

クリスチャンになってなにかが変わったのだから、私にもみんなと同じようにできるはず!

自分の意思を完全無視して、本と出版から遠ざかる

そして親に涙を流して謝り、親の会社で働かせてもらえるように頼んだ。

本当の私はそんなこと、1ミリもしたくなかったのに、親がそれを望んでいると思ったから。

実は、編集の仕事にもいくつか応募したけれど、どれも受からなかった。

この頃、毎日聖書を読む習慣はあったけど、他に読書もしていなかったし、ウェブライターの仕事を個人で少し受注していたくらいで、どんどん本や出版から遠ざかっていた。

親や母方の祖母は、実家の会社で働くことをとても喜んで歓迎してくれた。

そんな私に唯一、疑問をもってくれたのは、父方の祖母だった。

本当に福岡に帰ってきて良かったのか?と、聞いてくれて、私は私の決断で、そうしたのだから、それで良かったのだと答えた。

彼女が私の本当の気持ちを分かってくれて、それだけで本当に嬉しかったし、十分だった。

父方の祖父、つまり彼女の夫はすでに他界していた。

私が中学生の頃、私の進路に猛反対した祖父はもういない。

あの頃、祖母は祖父の言いなりだったけど、今は私の心情を一番理解してくれる人になった。

正しいことをしているはずなのになぜか状況は悪化

親の望む通りに生きているはずなのに、親の要望はどんどんエスカレートしていくばかりだった。

髪を切れだの、早く結婚しろだの…

私は、とにかく我慢した。

私は母のために生まれたのに、母のために生きてこなかったから、今このような悪い状態なのだと思い込んだ。

自分の人生は母のためにあると思いこんで生きてた。

腎部尿管移行部狭窄症が発覚、1回目の手術

福岡に帰ってから4年近く経った時、1度目の限界が訪れた。

夜中の3時か4時頃、右下腹部に鋭い痛みが走る。

当時私は友達とルームシェアをしていて、2人暮らしだったけど、ちょうど彼女が実家に帰っていて私は一人。

あまりの痛さに親に電話をかけたけど、こんな時間に起きているはずもなく繋がらない。

おそらく30分ほど苦しみ、水を飲んでも吐くほどの痛みに危険を感じて、救急車を呼んだ。

色々検査して分かったのは、腎盂尿管移行部狭窄症という病気。

膀胱と腎臓を結ぶ尿管が普通の人より狭く、尿が通りづらいことにより、尿の通り道が膨らんでパンパンになってしまう。

それで鋭い痛みになっているという。

実は中学生くらいから右下腹部が度々痛くなることがあり、いろんな検査をしたが、原因が全く分からなかった。

30歳を越え、症状が重くなってついに、原因が明らかになった。

すぐに内視鏡手術が行われ、尿を腎臓にスムーズにながすためのチューブを、尿管に入れた。

4日ほどで退院したけれど、体内にチューブが残っていて気持ち悪い。

このチューブは3ヶ月ほどで取り出さないといけないのだという。

取り出した後、また元の状態に戻る可能性が高いけれど、尿管を繋ぎ直すためのもっと大きな手術に踏み出す勇気はなかったので、とりあえず様子を見ることにした。

痛みへの不安と悪くなっていく体調で2度目の限界

そんなこんなで、私の体調はどんどん悪くなっていった。

チューブを入れている間は気持ち悪かったし、抜いた後はいつか来るかもしれない痛みに怯えた。

そして、2度目の限界。

お盆前で忙しく、体調も優れない中、なんとか仕事をしているのに、さらにやりたくないことを強制してくる母親。

もうできない。と、思った。

気付いたら号泣してその場を逃げ出していた。

仕事も残っていたと思うけど、本当にできなかった。

自分が持っていた仕事の道具は郵送で会社に送り、強制的に退職した。

その後は、バイトしたり個人で校正の仕事を請け負うなどして、なんとかやりくりしていた。

お金はそんなになかったけれど、だいぶ気持ちは楽になった。

ただ、罪悪感と劣等感はなかなか拭えない。

教会にも行き続け、私の異常なボランティア精神はどんどん加熱していった。

罪悪感に比例して、やることも増えていった気がする。

そして私は恋をした

同じ教会でボランティアをしている男の子を好きになった。

けれど、そんなこととてもじゃないけど言い出せなくて、私のような人間が誰かを好きになっていいはずがないと思っていた。

でもやっぱり、もしかしたら、があるかもしれない。

死ぬほど悩んだ末に気持ちを打ち明けたら、こっぴどく振られた。

今思うと当たり前かもしれないけれど、その時はとてもショックで、教会に居づらくなった。

私は、親と一緒に行きたいから、もっと年齢層の高い人が多い教会に移りたい。などと言って、それまで生き甲斐のようにやっていたボランティアを全て手放し、別の教会に行くことにした。

そして、私はそこに馴染めず、空気も読めず、この場所に無理に合わせようとして、どう振舞ったらいいのかが分からなくなり、余計にストレスをためて、ついに教会に行かなくなった。

2回目の手術、聖書が唯一の支えになる

そうこうしているうちに、やっぱりまた右下腹部が痛くなりはじめ、大きな手術を受けることになった。

この頃、ルームシェアを解消して一人暮らしをしていた。

外出すると吐き気を感じるようになっていて、右下腹部の痛みも相まって、かなり鬱っぽい状態だった。

とにかく手術をすれば治ると思って、大学病院で腹を5箇所切る手術。

怖かったけど、この痛みがなくなるならと、手術に踏み切った。

麻酔が切れた後、激しい痛みに気が狂いそうになった。

このまま死ぬのかと思ったくらい。

でも、その時はじめて、死にたくない!!

と、はっきり思った。

今まで、いつも死にたいと思って生きてきたので、これには驚いた。

死にそうになると、生きたくなるらしい。

寝返りも自力ではできなかったので、痛みを堪えて聖書の解説音声を聞きまくった。

もう、神にすがるより他に何もできなかった。

外に出られなくなったけどブログを立ち上げることができた

手術後すぐは個室だったけど、その後移った相部屋がうるさすぎたので、早く退院したいと頼み、1週間もせずに退院。

外に出るのもやっとだったけれど、宅食やウーバーイーツを駆使して、なんとか生き延びていた。

この頃立ち上げたのが、このブログ。

元々コーヒーのブログだったけど、私なりにデザインにすごくこだわって作ったから愛着があって、今もなかなか乗り換えることができない。

コールセンター派遣で不眠、うつ状態で性格も激変

手術が終わって数ヶ月が経った頃、仕事をしたかったけど、なかなか決まらないなかで、コールセンターの派遣が決まった。

コールセンターは苦手だと分かっていたけど、お金がなくて仕方なくはじめた。

研修の間は良かったけれど、だんだんと苦しくなって、夜眠れなくなった。

最初は、私、ショートスリーパーになったんだ!と、喜んでいたけれど、だんだんと食欲もなくなり、食べてないから目眩がするようになった。

仕事を休みがちになって、ある時、私もうこの仕事をやりたくないんだな。と、気付く。

寝れない、食べれない状態で、頭ももうろうとする中で、コールセンターの仕事はもうできないと思って早めに退職の意向を伝えた。

それから、心療内科に通って治療を受け、だんだんと眠れるようになってきた。

でも、なんだか今までの自分じゃないみたい。

前は、ライブやイベントが大好きで、人混みも苦じゃなかった。

今は誰にも会いたくない。

仲のいい友達とちょっと会うだけでも、ぐったり疲れてしまって翌日寝込む。

体力というか、エネルギーが本当になくなってしまって、その辛い気持ちをカウンセラーの先生に伝えたら、

今の自分を受け入れましょう

と、言われて落ち込んだ。

今はなぜこれが必要だったか分かるけど、当時はもうもとには戻れないのかと思って、ショックだった。

バイトさえ決まらない中、静岡移住を決意

おとなしく休んでいたら、体調は徐々に良くなっていった。

でも、まだまだコロナ禍で、仕事はない。

バイトも決まらない中で、寮付きの工場求人が目に付いた。

ここで働けば、家も仕事も手に入る。

親とは何度も断絶と和解を繰り返し、教会にも行けず、友達にも会えず、仕事もない。

何もかも失ったように感じていた私は、東京へ戻りたかった。

もうここにしか希望がないように思った。

でも人が多いところは怖かったので、千葉の田舎とか、東京に近いけど人が少なそうな場所の求人を探した。

最初は候補になかったけれど、静岡の求人が気になった。

大したハードルもなく、あっさり仕事が決まり、私は富士山のお膝元、富士宮市に引っ越すことになった。

これが、本当に、大正解。

工場の仕事は、はじめは慣れなかったけれど、あまり人と話さなくても良く、内向的な人が多かったし、上司や先輩がとても親切に助けてくれた。

なにより周りに自然が多く、美しい富士山を間近で見るたびに癒された。

私はだんだんと、元気を取り戻していった。

心からの願い「幸せになりたい」をキャッチ

そして、ある時ふと、心の奥底から湧き上がってきた願望。

それは、

幸せになりたい。

最初は、こんなこと考えるなんて、おこがましいと思った。

自分の幸せを願うなんて悪いことだと。

それまで私は、自己犠牲こそ正しいことだと思ってきた。

自己犠牲できない自分はダメな人間。

だから、自分が幸せになりたいと願うなんて、本当にそんなこと考えてもいいか分からなかった。

でも、その気持ちをもう留めておくことができない。

自己犠牲に自己犠牲を重ねて、本当に頑張ってきたから、そろそろ私が幸せになっても、もういいでしょう!

それが本音だったけど、認めるのは怖かった。

そんな時出会ったのが、

精神科医が見つけた3つの幸福

この頃私は、メンタルを安定させるための情報収集として、著者の樺沢紫苑先生のYouTubeをよく観ていた。

そこからこの本にたどり着いたんだと記憶している。

この本には、精神医学や脳科学からみた幸せの定義が書かれていた。

幸せとはなにか。

私は、幸せにはなれないと思っていたから、そんなこと考えたことがあまりなかったけれど、自分の体に幸せになる機能が備わっているのを知って、衝撃を受けた。

幸せになる機能が最初からついているのなら、私は幸せになっていいのかもしれない。

そうして私は、幸せになることを決めた。

本を読み、書き、実践。健康とパートナーを手に入れる

それから私はその本の教えに従って行動をはじめた。

まずは健康のために運動をはじめると、体調は見違えるほど良くなっていった。

次に将来を共にするパートナーが必要だと思い、婚活をはじめた。

少し時間はかかったけれど、現在の彼と出会うことができ、順調に交際は進んでいった。

一時は全てを失い、どん底まで落ちたと思ったけれど、少しずつ幸せな方向へ向かえるようになっていった。

転職失敗でうつ病に舞い戻る

次に私は、結婚を意識し、もっと収入を上げるべく、転職に踏み切った。

私と彼の家は車で1時間以上も離れており、結婚するならもっと近くで勤務先を見つける必要があると感じていた。

加えて、私が働いていた工場の求人には落とし穴があり、1年を過ぎると寮費を負担しなければならなくなる。

このタイミングで転職するしかないと思っていたから、数ヶ月時間をかけて転職活動を行った。

そして、希望の月給でなかなか条件のいい求人に巡り会うことができた。

しかし、職種は事務。

苦手な仕事で、しかも、物凄く忙しい職場。

私は過去最速の2ヶ月で潰れた。

ある朝、布団から起きられなくなってしまって2日ほど休んでから退職。

せっかく体調が良くなってきていたのに、またうつ病の診断をもらってしまった。

せっかく人生が好転してきたというのに、また振り出しに戻ってしまったような絶望感を味わったけれど、この時は前と全然違っていた。

彼がいてくれたから。

彼はとても私を支えてくれた。

そばに居てくれて、笑わせてくれて。

私は少し休んでまた、すぐに元気になった。

アウトプットを意識した読書法で心の勉強

この人のためにも、もう二度と同じことは繰り返すまいと、本格的に心の勉強をはじめることにした。

環境が変わっても何度もうつを繰り返すのは、私自身に問題があると気づいていたから。

この頃から、本を読む時、意識的に教会で習ったことを応用して読書を記録するようになった。

心に残ったとこをうつしたり、要約したり、感想を書いたりして。

今までも無意識に書いてたことがあったけど、樺沢先生の「学びを結果に変えるアウトプット大全」を知ってから、より確実にやるようになった。

アウトプットすると、記憶に定着する。

身につけたい本を、読んで、書いて、実践する。

私が聖書を読むことを通して身につけてきた、この読書法は、いい方法だったんだ!と、理論的に納得した。

成功している女性起業家の本にたくさん出会う

次に私が出会ったのは、「決めるだけ。」という本。

女性起業家の奥井まゆさんの本で、自分の決断がどんなに人生に影響を与えるのかを知ることができたとともに、こんなに成功している女性がいるのか!と、驚いた。

幸せになりたい、と、考える以前だったら自分とは縁のない話だと思っただろうけど、自分もこんな風に幸せになりたいと思い、他の成功している女性の本にも興味を持ち始めた。

小田桐あさぎさんの「ちゃん卒」本との衝撃的な出会い

その流れで出会ったのが、「「私、ちゃんとしなきゃ」から卒業する本」。

女性起業家というと、私は社会人としてそこそこ成功している人がやるものだと考えていたけど、この本の著者の小田桐あさぎさんは、ちょっと違っていた。

起業家になる前から、ぶっ飛んでいたし、今もかなりぶっ飛んでいる。

最初は少し抵抗があったけど、あるとき意を決して彼女のFacebookコミュニティに入ってみた。

あさぎさんの講座生がライブをしているのを観て私ははじめ、嫌悪感を抱いた。

なにこの人達、私はこんな風にはならない。

でも、「決めるだけ。」に、嫉妬などのネガティブな感情には思い込みが隠れていると書いてあったことを思い出して、素直な気持ちをノートに書き出していたら、

実は私も、もっとこんな風に自由に振る舞いたい!と考えていることに気付けた。

楽しく踊ったり、プリンセスのかっこをしてみたり、世界中を飛び回ったり。

大人なのにこんなに遊んでずるい!

その気持ちに気づけたら、みんなのことが大好きになった。

コミュニティに参加したり、サービスを受けたりして、アサギストと呼ばれる、あさぎさんの講座生とお近づきになり、小田桐あさぎさんの長期講座にも入ることにした。

あさぎさんの魅力覚醒講座はマインドを教えてくれる講座で、あさぎさん自身がうつだった時に取り組んで良かったワークも盛り込まれていると聞いて、私にはこれが絶対に必要だし、やれば絶対に変われると確信した。

さらに、講座に入ることで静岡県内の友達をつくることができた。

縁もゆかりも無い静岡に突然来てしまった私にとって、このことは本当に貴重な財産。

これだけでも本当に、講座に入ってよかったなと思えている。

就職に再び挑戦するも1ヶ月で挫折

そんなこんなで講座に取り組んで1ヶ月くらいがたった頃、私は別の会社に就職した。

今度は、稼げそうな派遣会社の営業の仕事。

人材関連業界に興味があったし、私自身も派遣で働いたことが何度かあって、派遣会社の中の人をやってみたかった。

そしてまた、1ヶ月で離脱。

最短記録更新。

このときも起き上がれなくなり、しんどかった。

周りもすごくよくしてくれたのに、なにが悪かったのか。

多分、毎日1時間かけて出勤し、スーツを着て、日報を提出し、毎日朝礼と夕礼に出席し、毎日掃除の時間があり、挨拶の言葉まで決められていて….

みたいな、割と普通の会社によくある無駄な規則に耐えられなかったように思う。

新卒入社の経験がなく、出版社や親の会社というゆるい環境の中小企業でしか働いてこなかったから、全国展開しているような大企業の雰囲気が、とにかく理解不能で耐えがたい苦痛だった。

魅力覚醒講座のキモ「罪悪感ワーク」「親ワーク」に真剣に取り組む

1ヶ月で仕事を辞めてしまったことは、私にとってはかえって良かったかもしれない。

一番きついとされている講座のキモ「罪悪感ワーク」と「親ワーク」に真剣に取り組むことができたから。

この頃は特に感情のアップダウンが激しくて、親ワークのあと1週間落ち込んだ。

でも、この効果は本当にすごくて。

講座の効果について、詳しくは別記事にしようと思ってる。

これまで親を敵と考えてきて、親の愛を愛として受け取ることも感謝もできなかった私が、親の愛を心で感じ、自然と感謝して受け取れるようになったことが、最も革命的なことだった。

特に前半に書いた通り、子ども時代から学生時代にかけて、親が私の教育にお金も時間もたくさん使ってくれていたからこそ、今があることにこの歳になってようやく、気づくことができた。

講座終了後、自分が本当に心地のいい生き方を模索

講座を終了して、卒業式やいろんな楽しいイベントにも参加して、すごく満足だった。

それと同時に失業保険の受給期間も終わったから、また働きだすことに。

自分のビジネスで生計を立てたい。

という気持ちもあるけど、まだ何をしたら良いかはっきりわからないということもあって、ひとまずはどこかで雇われて働く道を選んだ。

どんな仕事がしたい?

じゃなく、

どういう風に生きたい?

のか自問する。

私は、好きな時に、好きなところへ行きたい。

雇用形態や他の人に遠慮したり、世間体を気にすることもしたくない。

彼とのパートナーシップを大切にして、お互いを応援し合い、高あえる二人でありたい。

遊びたいし、学びたいし、いろんなことを経験したい。

好きな時に好きなところで働くにはどうしたらいいか考えて、ずっとやってみたいと思っていたリゾバをやってみることにした。

リゾートバイトとはいうものの、実際の雇用形態は派遣社員。

観光地のホテルや旅館に住み込みで働く。

今私がいるところは、箱根。

実は箱根には一度も行ったことがなかったけれど、温泉が好きだし、静岡にも東京にも近くて便利な場所だと思ったのと、時給も高いのでここに決めた。

最初の一週間は、慣れない生活で、久しぶりに働くし、大変だった。

だけど、だんだんと寮生活にも慣れ、毎日体を動かしてレストランで働けることの喜びも感じられるようになって。

日々、幸せだなあ、と感じてる。

これからも、私が生きやすく幸せな生き方を全力で追求していく。

またすごーく長くなったけど、今はまだここまで。

読んでくれて本当にありがとうございました!

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