「神様」って聞いたとき、どんなイメージが浮かぶ?
きっと人によっていろいろだと思うけど。
神社の神さま、お正月に初詣するあの感じだったり。
ご先祖さまとか、仏さまとか。
八百万(やおよろず)の神って言葉もあるくらい、山とか海とかトイレにまで神さまがいる、みたいな話もあるよね。
そんでね、今回のテーマは「愛とは神である」なんだ。
…え?急にスピリチュアルすぎ?笑
まぁ、ちょっと聞いてって。
一神教と多神教
まず「神とはなにか」って話をしないと、「神=愛」って言われてもピンとこないと思うんだよね。
日本では神さまって、けっこうゆる〜く信じてる感じあるよね。
神社に初詣に行って、なんかお願いしてみたり、仏壇に手を合わせて「見守っててね〜」って言ったり。
これが多神教の世界観。
いろんなとこに神がいる、ってやつね。
一方で、一神教。
キリスト教とかユダヤ教とか、そっちは「神はひとりだけ!」って考え方なんだ。
しかもその神がこの世界全部を創ったっていう。
で、「神は愛である」ってはっきり言うんだよね。
ストレートでかっこいいよね。
でさ、ここがややこしいんだけど、一神教と多神教って相容れないものに見えるじゃん?
私もずっとそう思ってたんだよ。
だけどね…実はどっちもつながってるんだよね。
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でも話したけど、陰陽のマークあるでしょ?
白と黒の渦巻いてて、お互いの中に小さな丸があるやつ。

これって、「正反対に見えるものも、実はつながってるよ」って教えてくれてるんだよね。
神って実は、全部でひとつなんだ。
多神教でいえば「すべてに神がいる」。
一神教でいえば「神はすべてを創った」。
…これ、言い方違うだけで、同じこと言ってるんじゃない?って思ったわけ。
で、神は愛でしょ?
つまり、愛も全部にあるってことなんだ。
海にも山にも、自分の中にも。
そう考えたときにね、「神ってどこかにいるんじゃなくて、自分の中にもあるんだな」って思えたんだよね。
これがめちゃくちゃ大きな気づきだったんだ。
ちょっと話が長くなってきたから、ここらで私の体験をシェアするね。
私の家、もともと仏教(浄土真宗)だったの。
神社も行くし、仏壇にも手を合わせるし、まぁふつうの家庭だったんじゃないかな。
でも私ね、27歳のときにキリスト教に改宗したんだ。
それまで色んな神を信じてきたけど、全然幸せになれなかったから。
それで10年くらい、わりと本気でキリスト教徒やってた。
牧師目指して、教会行きまくって、アメリカの通信制の神学校まで卒業して。
なのにね、全然幸せになれなかったの。
心も体もボロボロになって、「神に裏切られた…」って本気で思ってたんだ。
じゃあ一体なにがいけなかったの?ってことなんだけど。
一神教も多神教も超えていく「ほんとの神」について。
それこそが、私がずっと探してきた「幸せの鍵」だったんだ。
幸せをはばむ「神」についての誤解
神って、愛なんだ。
一神教でも多神教でも、その本質は「愛」ってこと。
神は全てであり、愛は全てである。
…って話をしたんだよね。
で、ここで「は?なにそれ罰当たりじゃん!」って感じた人がいるかもしれない。
でもね、それ、まさに今回のテーマなんだよ。
「神は罰を与える存在」「神は人を裁く存在」そういうイメージをもってない?
でもさ、罰とか裁きって、愛から来るものじゃないんだよ。
むしろ不安から生まれるもの。
たしかに、「愛してるからこそ、罰する」って言いたくなる気持ちも分かる。
でもその愛、ちょっと不安混じってない?
って話なんだ。ちょっと想像してみて。
いつもピリピリしてて、すぐ怒って、なんでも裁こうとする神様。
そんな神がそばにいたら、安心して生きていける…?
私は無理だったんだよね。
昔の私はずっと「こんなことしたらバチ当たる」とか「こんなんじゃ天国に行けない」ってビクビクしてた。
いつも自分を責めて、全然幸せになれなかったんだよ。
でも、はっきり言うね。
神は罰しない。
裁かない。
だって神は「愛」だから。
それでも、あなたが「神は罰を与える存在だ」と思い込んでたら、そういう現実を自分でつくっちゃうんだよ。
私たちって、神さえ創っちゃえる存在なんだよね。
だからこそ、決めてほしいの。
「神は私を罰しない」「神はただただ、私を愛してくれてる」って。
「え、それって罰当たりじゃない?」って思うかもね。
でも大丈夫。
すぐには変われないし、疑う気持ちがあっても当然なんだよ。
私もそうだったから分かるんだ。
それでも、神はそんなあなたのことも、まるごと愛してる。
そう、全部ぜんぶ受け入れてくれてるんだよ。
あなたはそれを、ただ受け取るだけ。
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