18期、19期と2期連続で小田桐あさぎさんの魅力覚醒講座を受講してきた私。
そしてこの度、私も「魅力覚醒講座」を開講させてもらうことにしました☺️🍓
私の人生を激変させてくれたこの講座。
中でも「欲望リスト」と「親ワーク」を深掘りし続けてきたことで、卒業後も覚醒が加速し続けていると感じてる。
写真を見ていただければ分かると思うけど、ここのところは見た目もバッキバキに変わって、幸福度が上がりまくってるの。
「欲望リスト」ってそんなに難しいワークじゃなくて、気軽に書けたりもするんだけど、けっこう奥が深い。
ここんとこ詳しくは無料講座【欲望の叶え方】で解説してるから、興味があれば読んでね☺️
無料講座の参加はともちゃ公式LINEから。
そして、親ワーク。
私は親ワークって、
1、自分の歴史を知り
2、過去のとらえ方を見直して
3、自分にとってより良い未来を創造する
ことだと思ってる。
「親ワーク」って字面だけ見ると、親との関係改善とか、過去のわだかまりの解消のように思えるかもしれないけど、本質はそこじゃない。
だから私は自分史を更新し続ける。
自分の未来のために、自分の過去を、自分の歴史を、自分のルーツを見つめ続ける。
そこにより良い未来の種が隠れているから。
そしてなにより、過去から現在に受け継がれている愛という宝物を見つけることが本当に楽しいから!
- 仲良し3人きょうだいの第一子として生まれる
- 教育熱心な母親がつきっきりで私を育てた幼少期
- モンテッソーリの幼稚園で工作や手芸に没頭
- 物質的に恵まれていたものの心が荒んでいく…
- 父の教え「人間は幸せにはなれない」
- 図書館に引きこもる小学生時代
- 漫画家になる夢を家族中が猛反対
- ドラマやアイドルに熱中してさらにオタク化
- 書店でバイトし彼氏と遊びまくった大学時代
- 読書で腰痛が改善!本で人生を変えた初めての出来事
- 就職難の時代に無気力、だからこそ選べた出版の道
- 一番楽しい学生時代を過ごした雑誌編集の専門学校
- 刺激がいっぱいの職場で問われた「ホッとする場所とは…?」
- 無計画で念願の東京へ。医薬品業界の新聞記者になる
- キリスト教との出会い。クリスチャンになる
- 劣等感こじらせ。重すぎる罪悪感に苦しむ日々
- 福岡に帰るもさらに罪悪感が加速
- 正しく生きてるはずなのに…何かがおかしい
- 福岡市内を転々とする生活
- 腎盂尿管移行部狭窄症が発覚
- パニックになり号泣。叫び声を上げて会社を逃げ出す
- そして私は恋をした
- 教会を変えても状況は悪くなる一方
- 二度目の出術に成功するもあまりの痛みで死を覚悟
- 術後も誰にも頼れず借金生活
- コールセンター派遣で本格的な不眠→うつに
- 人生リセット!静岡へ
- 親と絶縁。はじめて感じるホッとする感覚
- 樺沢先生の幸せの三段重理論を本気で実践
- 転職でまた絶望の淵に落とされる
- ますます本を読んで心の学びを深める
- 小田桐あさぎさんとの出会いが私の人生を激変させる
- 就職が決まるもまた1ヶ月で脱落…
- 夢中で取り組んだ魅力覚醒講座終盤の「罪悪感ワーク」
- 魅力覚醒講座のキモ「親ワーク」
- 講座を通して学んだ自己受容の大切さ
- 周りを見渡すと、やっぱりなにかがおかしい…
- 今後の活動・SNSなど
- まとめ
仲良し3人きょうだいの第一子として生まれる
私は九州の福岡で産まれた。
福岡ってそれなりに都会なんだけど、家は市の中心部にも電車で10分ほどで着くような場所で育った。
3人きょうだいの長女で、下に弟と妹。子どもの頃はケンカもしたけど、今は仲が良くて、ふたりとも私をとても大切にしてくれてる。
お父さんもお母さんも同じく3人きょうだいの第一子で、一番に結婚し、一番に子どもを産んだので、父方、母方、両祖父母にとっても、私は待望の初孫だった。
おじさんや、おばさんも私を可愛がってくれ、たくさんの人に、とても愛されて育ったことを覚えてる。
教育熱心な母親がつきっきりで私を育てた幼少期
一方で、母のプレッシャーは相当なものだったと思う。
姑(私のおばあちゃん)との折り合いも悪く、夫(私のお父さん)との結婚生活も理想とはかけ離れたものだった。
で、私を産んでからは精神に不調をきたしていったらしい。
だけど、私にはかなりの手間と愛情をかけてくれた。
幼稚園の年中になるまで保育園などに預けることもせず、母乳育児、布おむつで大切に育てた。
それに一生懸命、絵本を読み聞かせてくれたらしい。
そのおかげで、私はとても本好きになったんだと思う。
モンテッソーリの幼稚園で工作や手芸に没頭
そんな私は、幼稚園に入ると工作や手芸に夢中になった。
モンテッソーリ教育を取り入れているカトリック系の幼稚園で「おしごと」と、呼ばれる工作や手芸の材料がいくつも置いてあり、自分の好きに選んで自由に遊べることが、とても楽しかった。
体操や水泳、ピアノなど、たくさん習い事もさせてもらった。
今でも続いているのは水泳くらいだけど、色々な経験をできたことは財産になっているんじゃないかな。
物質的に恵まれていたものの心が荒んでいく…
こうやって見ると、とても恵まれた幼少期を過ごしてきたと思う。
だけど私は、物心ついた頃から両親の不仲に、ひどく心を痛めていた。
疲れきって愚痴ばかりのお母さんの姿は、私にはとても苦しく感じられた。
毎日毎日、両親はケンカばかり。
お父さんへの文句、父方の祖父母の愚痴、親戚の悪口。
自分の母親から自分と血のつながった親族がどれだけ悪い人間かを聞かされ続けるのは、本当に苦痛だった。
こういう話を聞き流せたり、一緒に話して盛り上がれる人もいると思うけど、私は全て真正面から受けとり心を痛めてしまっていた。
一方で、建築士のお父さんは自分の会社を経営していたんだけど、あまりうまくいかなかったみたい。
ある時からは事業を縮小し、自分の父親(私のおじいちゃん)の経営する会社で働くようになった。
私が子どものころのお父さんは仕事のことで精一杯だったのか、なにを話しても上の空だったように思う。
先日話したことを全くおぼえていなかったり、今日、いいよと言っていたことも、翌日話したらダメと言うなど、とにかく意見がコロコロ変わるので、とてもストレスだった。
そんな両親だったから、子どものころの私は、親の機嫌こそが人生の全てだった。
親の機嫌さえ良ければ、やりたいことをやらせてもらえるし、自分も気分よく過ごせる。
父の教え「人間は幸せにはなれない」
そんな中、私の人生を左右する衝撃的なできごとが起こった。
年齢的には私が小学生くらいの時のことだったと記憶してる。
両親(特に母親)の機嫌に私の全てがかかっている現状、そのことがあまりにも辛かった私は、お父さんに聞いてみた。
「家族なのに、なんでお母さんにこんな気を遣わないかんと?」
これは、私の心からの叫びだった(博多弁)。
家族って、こういうものなの?
家ってもっと、のんびりできる場所なんじゃないの?
多分、10歳前後、小学生になって、少しは世界が広がって、これまでの当たり前を疑問に思った瞬間だったんだと思う。
お父さんの答えは、こう。
「人間は幸せにはなれんとよ。幸せだと思っても、また次の欲が湧いてくるから、永遠に幸せにはなれん。やけん、家族に気を遣わないかん」
細かいニュアンスは違っていたかもしれないし、お父さんが本当に伝えたかったことは別のところにあったのかもしれない。
だけど、いつになく真剣に語るお父さんの言葉は「人間は幸せになれない」「家族に気を遣わなければならない」という2つの価値観を、私の心に深く深く刻み込んだ。
今でも覚えているくらいだから、相当ショックだったのだと思う。
まだまだ幼かった私は、この言葉をそのまま受け入れたの。
図書館に引きこもる小学生時代
小学校での私は、それなりに仲良しの友達もいたけれど、幼稚園でも一人で工作や手芸ばかりやっていたし、どうも集団行動が苦手で。
休み時間も図書館に引きこもって1人で児童書を読んでいることが多かった。
こまったさんのシリーズや、ムーミン、特に海外の児童文学は今でも好き。
図書館も自宅近くだったので、たまに行っていたことを覚えてる。
漫画家になる夢を家族中が猛反対
中学年になってからは、漫画に夢中になった。
お兄ちゃんがいる友達の家に遊びに行った時、はじめてONE PIECEを読んで、少年漫画の面白さに出会ったんだよね。
これまで、セーラームーンなどの少女漫画にしか興味がなく、少年漫画は絵が怖いと思っていたんだけど、ONE PIECEはそんな私にもとっつきやすい漫画だった。
それからは週刊少年ジャンプにドハマリし、自分でも夢中で絵を描くようになった。
同じように漫画が好きな友達もでき、同人活動にも励んでいた。
私は本気で漫画家になりたかったの。
そんな折、また大きな事件が起こる。
高校受験の際、絵やデザインを勉強するため、芸術系の学校を受けたいと言ったら、家族中が猛反対。
両親はもちろん、あんなに可愛がってくれたおじいちゃんやおばあちゃんまで。
特にその頃は父方のおじいちゃんの力が強く、おじいちゃんの言うことは絶対という風潮があって。
私の味方をしてくれる人は誰もいなくて、周りが全て敵だらけになった。
おじいちゃんには絵なんか描いても食ってはいけないと説得された。
もう中学生だし、それが愛ゆえだと当時も頭では理解できていたと思う。
だけど、絵を描くこと、漫画に没頭していた私の感情はおさまらない。
完全に親に心を閉ざすようになった私は、学校には行っていたけど、教室に行かず、保健室で過ごすことが多くなった。
その頃は、こんな小さな反抗をすることしかできなかったから。
ドラマやアイドルに熱中してさらにオタク化
結局、親も納得する進学校へ進むことになった。
普通科だけど芸術のコースがあり、数学や英語のかわりに、美術の授業を選択できる。
私の学力ではかなり厳しい学校だったけど、奇跡的に受かることができた。
高校に上がり、漫画に加えて特撮やドラマやアイドルにハマるようになった私は、ほとんど勉強をせず、どんどんオタク化が進んでいった。
親との関係はますます冷え込み、特にお父さんとは話せばケンカになるのでほとんど会話することはなかった。
とにかく家にいることが嫌だった。
3年生になる頃には、ほぼ毎日遅刻していたけど、生徒会に入って面倒な仕事を淡々とこなすことで、独自のポジションを築いていたためか、不思議と先生に怒られることはなかった。
親のフリをして電話で欠席の連絡をし、サボって遊んだりもしてた。
遊ぶといっても、土日は混んでいてなかなか入れないオタクスポットでゆっくり買い物する…とかだけどね。
私は高校の授業時間はほとんど寝ていたし、勉強は本当に嫌いだった。
今思うと少し無理して進学校に入ったし、授業についていけないのも仕方ないよね。
学力にはかなり偏りがあって、数学は壊滅的にできず、テストは基本10点台、2点しかとれなかったこともある。
一方で、国語だけはいつも高得点だった。
ほとんど勉強せず受けたテストで学年2位になったり、漢検2級を取得して、全校生徒の前で表彰されたりもした。
相変わらず漫画やイラストは描いていたけれど、いつしか漫画家の夢は諦めてた。
かわりに、本や漫画を売る、本屋になりたいと思うようになっていった。
そして、漫画や小説やDVDのためにお金が必要だったので、できる限り早く働きたいと思ってた。
オタク友達も大学に行かない人が多かったし、2年で卒業できるビジネスの専門学校に進学するつもりだった。
しかしここでも親の猛反対にあってまたか…と、ウンザリ。
お父さんに頼むから大学に行ってくれとまで言われて、そこまで言うなら…バイトで稼げばいいかと、折れた。
親は私のやることなすこと、全てに反対してた。
書店でバイトし彼氏と遊びまくった大学時代
大学は地元の私立大の経営学部に進学。
もっとレベルの高い学校も受けさせられたけど、大学受験はさすがに受からなかった。
そして大手の書店でバイトをはじめた。
さらに同じ大学のゼミで彼氏もでき、授業もそこそこ、嫌いな親のいる家には帰らず、カラオケでオールしたり、旅行したりして、一緒に遊びまくる毎日を過ごしてた。
そしてアイドルに熱中し、バイト代は全てライブ参戦に消えていった。
読書で腰痛が改善!本で人生を変えた初めての出来事
大学在学中、私はひどい腰痛もちになった。
親も心配して、病院や整体、気功など、あらゆることを試させたけど、一時はよくなって、また元に戻るので、根本的解決にはならなくて。
そんな時出会ったのが、バイト先で見つけた「腰痛は<怒り>である」という本。
その頃は本当に1時間も座っていられないくらいだったので、ワラにもすがる思いで買って読んだ。
ここに書いてあったのは腰痛の原因は、体の歪みや運動不足などではなく、心(ストレス)だということ。
半信半疑だったけど、私自身、親のことでものすごいストレスを感じていることは自覚していたので、当時大学で無料で行われていた学生向けのカウンセリングを受けることにした。
数回に渡ってカウンセリングを受けてみると、絶大な効果があり、本当に腰痛はなくなっていった。
当時の私は、親を敵認定していて、私が弟と妹を守らないといけない。と、勝手な使命感を抱いていたの。
当時私は東京で就職したかったんだけど、私がいないと弟と妹が困るから、家を出ることができない。と、思いこんでいた。
あなたがいなくても弟や妹は自分でなんとかするんだよ。
カウンセラーの先生が、そう教えてくれ、私は、それもそうか…と、納得。
印象に残っている会話はそれだけなんだけど。
その後も何度かカウンセリングに通って、腰痛は劇的に改善していった。
就職難の時代に無気力、だからこそ選べた出版の道
大学の授業はサボりまくっていたので、4年生になってから必死で単位を取った。
ゼミの先生がとても面倒見の良い方で、ちゃんと卒業できるよう、卒論から何から、助けて、励まし続けてくれたの。
新卒の就活は私にとってとてもハードルが高くて。
さらにリーマンショックの影響で、ものすごい就職難の時代が到来。
すでに内定をもらっていた同じ大学の友人が、何人も悪質な新卒切りにあっていて怖かった。
いくつか説明会には申し込んだけれど、正直、この頃どんな仕事がしたいかなんて分からなくなっていて、私の心は完全に折れてしまっていた。
そして、私は東京に出たいと思っていたけれど、やっぱり両親はそれを許さなかった。
ふてくされて就活へのやる気も起きず、ゼミの先生に愚痴をこぼすとこう言われた。
「東京に出たいなら、なぜ必死で働いてお金を貯めなかったの?親に反対されたって、やればいいでしょ?」
ショックだった。
言われてみれば大学4年生というと、もう20歳を超えているし、十分大人。
バイトして自分でお金も稼げてる。
先生の言う通り、自分の進みたいように進めば良かったのに、私は親が許可する方向にしか、進めないんだと思いこんでた。
ここへ来てわたしは大きな決断をすることに。
就職せず、出版の専門学校に通うことにした。
一番楽しい学生時代を過ごした雑誌編集の専門学校
私が入った専門学校は、社会人として働きながら学ぶコースで半年で修了できるというもの。
学費は頭を下げて親に保証人になってもらい、ローンを組んだ。
この時も親は賛成こそしなかったけど、保証人にはなってくれた。
ゼミの先生は、私の決断を喜んでくれ、もう大丈夫、安心したと言ってくれた。
専門学校に通った半年間は超刺激的で楽しさの極みといっていいほど。
はじめて自分が勉強したいと思ったことを勉強できる機会が巡ってきたから。
私はマガジンエディターコースで、クラスのメンバーは6名ほどだった。
半年で一冊のフリーペーパーを出すのが目標で、6人の編集部、意見をぶつけ合い、たまにケンカしながらも、お互いの才能を認めあって成長していくことが本当に楽しかった。
先生たちも個性的で、ファッションやデザインなど他の学部の友人も、みんな面白い人ばかり。
そして、クラスのなかで私だけが最終的に出版社で編集の仕事を得られて、卒業と同時に働き出すことができた。
しかも私は運転免許を持っていなかったんだけど、免許必須の仕事だと知らずに応募。
面接担当者も免許がないことに気付かず、内定後に発覚。
だけど、働きながら免許をとることを条件に、無事入社することができた。
地元福岡では編集の仕事はとても少なかったから、すごくラッキーだったし、あの頃の私は本当に熱意がすごかったんだと思う。
刺激がいっぱいの職場で問われた「ホッとする場所とは…?」
雑誌編集の仕事はサービス残業当たり前で、終電を逃したり、日付が変わるまで会社にいることもしばしば。
職場は実家から特急電車で30分以上かかるような場所だったから、締め切り前はネットカフェに泊まって、そのまま出勤するような生活が続いてた。
しかし、家に帰りたくない私にとっては、都合が良かったのかもしれない。
忙しかったけど、ますます刺激的で楽しい日々だった。
この会社では多くのことを学び、失敗しながらも、たくさんの経験を積ませてもらった。
この頃、先輩に言われた言葉で衝撃を受けたことがある。
「ホッとできる場所ってありますか?例えば、自分の部屋とか、お気に入りのカフェとか…」
私はこの問いに答えることができなかった。
10代の頃から家族全員が敵だったし、あまりホッとする場所にいたことがなかった。その感覚が、よく分からなかったの。
今思えば、この先輩は、私の心がなんだか荒んでいることを見抜いていたんだと思う。
無計画で念願の東京へ。医薬品業界の新聞記者になる
編集の仕事をはじめて1年が経った頃に、活躍している先輩として、専門学校に呼ばれることになった。
ときはちょうど、東北関東が震災でめちゃくちゃだった頃。
久しぶりに会った先生に、こう言われた。
「不謹慎だが、今はお前にとってチャンスだ。東京の人材が地方に流れつつある。いつか東京に出たいなら、今行け」
この言葉に揺さぶられた。
今行かないと、もう行けないと思った。
親の反対も聞かず、会社を辞め、借金して東京に部屋を借り、もう2度と福岡に帰らないつもりで、東京へ引越した。
無計画だったけど、必死に就活したら意外とあっさり仕事は決まった。
そして、東京では医薬品関連の新聞記者をすることに。
月給は少なかったけど、出版の仕事にしてはワークライフバランスもよく、ほとんど毎日定時に退社。
お金が足りないので、夜はキャバクラでバイトした。
この頃から、お酒をたくさん飲むようになってきて、今考えるとだいぶアルコールに依存していたように思う。
家でも外でも、毎日飲んでた。
新聞記者の仕事では、ある意味お酒を飲めることが歓迎される風潮もあったので、私には好都合だった。
学生の頃から付き合っていた彼とは、このあたりでお別れすることに。
とても優しく真面目な人で、6年ほど付き合ったけど、彼は福岡からなかなか離れなくて。
すごく好きだったのに、ある時、一気に気持ちが冷めてしまった。
この心変わりには自分でも驚いてしまって。
私は以前から、出会って好きになった頃が最高値で、そこから愛はだんだん減っていくものだと考えていたんだけど、その通り、いや、それ以上に愛が一気に消えてなくなってしまったの。
この時、そもそも愛なんて幻想で、本当は存在しなかったんだと感じた。
ただ、もし彼がいなかったら私はもっと恋愛にだらしない女だったと思うから、長いあいだ守ってくれた彼には、とても感謝してる。
1年半ほどこのダブルワーク生活を続けたけど、さすがに大変になってきて、仕事をやめ、独立を決意。
個人で仕事を請負えばもっとお金をかせげると思った。
でも、色んな出版社に営業をかけてライターとして使ってもらえるよう努力したけど、あまり報酬のいい仕事は回ってこなかった。
結局、演劇情報雑誌の編集部で派遣の仕事をすることに。
これまでの仕事の中で、一番楽だったにもかかわらず、一番稼げた。
この時、気がついたのは仕事の大変さと、給料は比例しないんだということだった。
キリスト教との出会い。クリスチャンになる
そんな日々を過ごしてしばらく経ったある時、Facebookを見ると、地元の友達が東京の教会で行う無料のゴスペルコンサートの告知をしてた。
東京に住んでいるなら、久々に会いたいという気持ちもあって、そのコンサートに行くことに。
子ども頃から彼女がキリスト教徒だと知っていたので、特に抵抗もなかった。
ゴスペル音楽は本当に素晴らしくて、楽しくて、これまで音楽ライブのために働いた金をつぎ込んでいた私は、こんな素晴らしいコンサートにタダで参加できることに感動。
ゴスペルの魅力にハマっていった。
さらに、彼女の教会は六本木にあり、国際色豊か。
日本語が堪能な外国人も多く、私が今まで経験したことのないような世界が広がってた。
私はたびたび教会に行くようになり、聖書の話を聞くようになる。
そして、神が私を愛していることを知り、その教えに感銘を受け、信じたいと思い、ついに洗礼を受けたの。
このことには、私の人生の土台を根底から変えるインパクトがあった。
【いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。】
これは聖書にある言葉。
キリスト教では神が私を愛しており、神は愛である。と、説いてる。
愛は存在する。
私は愛や希望が存在すると信じたかったし、誰かからハッキリとそう言ってもらいたかったんだと思う。
親の愛さえ信じることができず、愛など存在しない前提で絶望のなかを生きてきた私にとって、誰かから愛されてると思えたことが、生きる希望の光になった。
教会では徹底して聖書を読むことを教えられ、自分で聖書を読み、それを毎日記録する習慣をつけるよう指導された。
心に響いた箇所を抜き出し、神がなにを語っていると思うか、自分で書き、生活に適用する。
はっきり言って、聖書は何千年も前の海外の書物だから難解すぎる。
こんな読み方では全くもって聖書で語られていることの本質を理解することはできない。と、今では思ってる。
けれど、この時期に身についた読書法を使って、より分かりやすい現代の自己啓発書や実用書を読むと、素晴らしく内容が身に付くことに気付いたの。
今でも私を助けてくれている読書の土台がこの時期に培われたことは間違いない。
劣等感こじらせ。重すぎる罪悪感に苦しむ日々
さて、聖書と教会にどっぷりハマった私は、次第に物凄い罪悪感に悩むようになっていった。
主に両親との不仲について。
その頃の私は、両親の希望通りに生きられないこと=悪だと思ってた。
そして、教会の友達はみんなとても心が美しく優秀で裕福で豊かで完璧に見えた。
一方私は、収入もみんなに比べて低く、親を裏切り、酒浸りで最悪な人間だと思えた。
人と自分を比較し、劣等感もこじらせていった。
ついに私は罪悪感に耐えられなくなって、地元に帰り、できるだけ親の望む通りの生き方をすることを決意。
私を教会に誘ってくれた彼女は、おかしな方向へ進もうとしていることを察知して、とても心配してくれたんだけど、私は自分の決断が正しいと心から信じてた。
これからはもっといい人間になれるよう努力しよう!
そんなこと教えられてもいないのに、私はそういう道へと突き進んでいった。
福岡に帰るもさらに罪悪感が加速
福岡に帰ってからは、同系列の教会がちょうど福岡にできたタイミングだったので、そこに通い続けることに。
私は罪悪感から逃れるために、必死でボランティアを頑張った。
でも、やればやるほど、私は他の人より悪い人間、だから何をやってもうまくいかない。
そんな思いがいつも拭えないままだった。
もちろん強制されてやっていたわけでもなかったのに、自分で自分をどんどん追い詰めていって。
教会では、自分を変えなくていいんだよと、言われたこともあった。
でも、私は、私だけは変わらないといけないと思ってた。
他のみんなと違って私は特別悪い人間だから、私に限っては自分を変えないといけない。と、本気で思いこんでた。
クリスチャンになって、洗礼を受けてなにかが変わったのだから、私にもみんなと同じように、親の意向にそった人生にできるはず!
そして親に涙を流して謝り、親の会社で働かせてもらえるように頼んだ。
本当の私はそんなこと、1ミリもしたくなかったのに。
親がそれを望んでいると思ったから、そうしてしまった。
実は、福岡に帰ってきて、編集の仕事にもいくつか応募したけれど、今度はどこにも受からなかった、というのもある。
親や母方のおばあちゃんは、実家の会社で働くことをとても喜んで歓迎してくれた。
そんな私に唯一、疑問をもってくれたのは、父方のおばあちゃん。
本当に福岡に帰ってきて良かったのか?と、聞いてくれて、私は私の決断で、そうしたのだから、それで良かったのだと答えた。
おばあちゃんが本当は東京にいたかった私の気持ちを分かってくれて、それだけで本当に嬉しかったし、救われた。
父方のおじいちゃん、つまり彼女の夫はすでに他界してる。
私が中学生の頃、絵の勉強をすることに猛反対したおじいちゃんはもういない。
あの頃、おばあちゃんはおじいちゃんの言いなりだったけど、この頃には私の心情を理解してくれる、唯一の人になってた。
正しく生きてるはずなのに…何かがおかしい
親の望む通りに生きているはずなのに、なぜか親の要望はどんどんエスカレートしていくばかりだった。
特に母は口うるさく、
髪を切りなさい、掃除しなさい、早く結婚しなさい…
私は、とにかく我慢に我慢を重ねていった。
私の人生はお母さんのためにある、私はお母さんのために生まれたのに、お母さんのために生きてこなかったから、今このような悪い状態なのだと思った。
だから言われるままに、耐え続けてた。
そして今思うと、教会での奉仕や聖書解釈にかんしても、私の親との関係が色濃くにじんでいたように思える。
キリスト教を学びはじめて間もなく、知識も浅く、英語も人一倍できない私が、教会のなかでそれなりに大切に扱われるためには、とにかく、自分の親のような存在である牧師の指示は絶対に正しいと思わないといけないと、無意識に考えてたと思う。
自分の意思や意見や感情は一切無視し、ノーと言うことを全く考えなかった。
そして、彼ら(当時私の教会の牧師はオーストラリア人の夫婦だった)の意向を汲み取って行動しないといけないと、考えていた。
私は牧師になりたかった。
キリスト教の教えは素晴らしいと考えていたし、実際教会に来て人生が素晴らしいものになっていった人たちもたくさん見てきたから。
そんな仕事ができたら、どんなに素晴らしいだろうと憧れた。
やがて私は社会人女性のリーダー的存在になっていった。
でも私がリーダーになったとき、教会を離れていった人もいる。
牧師は私のせいじゃないと言って慰めたが、私は自分に失敗者のレッテルを貼った。
さらに罪悪感と劣等感が募る。
加えて、私は毎週金曜日に社会人のランゲージエクスチェンジ(英語と日本語を主軸にしたカジュアルな多言語会話のコミュニティのような感じの会)を主催するようにもなった。
もともとは別のカップルがやっていたんだけど、結婚して子どもが産まれ、毎週運営することが難しくなったから私が引き継いだ。
これが私にはかなり苦痛だった。
実を言うと私は、外国語を話すことに全く興味がなかった。
しかも会話の中身は、どうしても内容が薄くなる。
出身地について、趣味について、好きな映画やアニメ、食べ物、旅行のこと…
私はもっと神のこと、心のこと、人生のことを、話したかった。
私は全く興味のない映画について毎週毎週話し、好きでもないキャラクターを好きだと言い、自分を殺しながら、みんなのため、教会のため、いや、神のためにこのコミュニティを3年くらい続けていた。
福岡市内を転々とする生活
福岡にいた頃の私は住むところを転々としていた。
はじめは実家で親と同居していたけど、やっぱり折り合いが悪く、シェアハウスに引っ越すことにした。
ここでの生活はかなり楽しかった。
色んな人生を送っている個性的で素敵な人たちから色んな面白い話しが聞けたし、私の教会の話なんかも、ここの人たちにとっては面白く聞いてもらえるネタだった。
でも男女混合のシェアハウスだったし、キリスト教徒でない人たちとの共同生活が牧師によく思われていないような雰囲気を感じていた。
実際にそうだったかは、分からないけれど、言葉がうまく通じないから、確認のしようもない。
ある時、教会の友達が数人でシェアしていた家に空きが出ることになったので、そこへ入れてもらうことになった。
ここでの生活も楽しく、人間関係も良好だった。
けれどこの家の名義人になっている子が結婚することになり、そのまま住み続けることが難しい状態になった。
それぞれがバラバラになって、私は一旦実家に戻ることに。
しかし親と住む気にはなれず、使われていなくて物置化していた部屋を掃除して住むことにした。
だけどその部屋と同じ階にある風呂場に毎朝、両親はやってくる。
しかもケンカしながら…
私はまた心が落ち着かなくなり、ストレスがたまって引っ越したいと思うようになった。
その頃、教会に新たにやって来たカナダ人の女の子と仲良くなり、一緒にルームシェアしたいね!という話になった。
物件探しは難航したけど、なんとかいいアパートを見つけて、そこに2人で住めることになった。
その場所は教会にもほど近く、教会の友達と集まったり、このうちのバスタブで洗礼を授けたりもしていた。
腎盂尿管移行部狭窄症が発覚
福岡に帰ってから4年近く経った時、1度目の限界が訪れる。
夜中の3時か4時頃、右下腹部に鋭い痛みが走った。
ルームシェアをしていたカナダ人の女の子はちょうどカナダに里帰りしていて私は一人。
あまりの痛さに親に電話をかけたけど、こんな時間に起きているはずもなく繋がらない。
おそらく30分ほど苦しみ、水を飲んでも吐くほどの痛みに危険を感じて、救急車を呼んだ。
色々検査して分かったのは、私は腎盂尿管移行部狭窄症という病気だということ。
膀胱と腎臓を結ぶ尿管が普通の人より狭く、尿が通りづらいことにより、尿の通り道が膨らんでパンパンになってしまう。
それで鋭い痛みが出ていたの。
実は中学生くらいから右下腹部が度々痛くなることがあり、いろんな検査をしてきたんだけど、これまで原因が全く分からなかった。
30歳を越え、症状が重くなってついに、原因が明らかに。
すぐに内視鏡手術が行われ、尿を腎臓にスムーズにながすためのチューブを尿管に入れた。
4日ほどで退院したけれど、体内にチューブが残っているので、気持ち悪く、ちょっと走っただけでチューブが内部ですれて、血尿が出てしまうような日々。
このチューブは3ヶ月ほどで取り出さないといけないというものだった。
取り出した後は、また元の状態に戻る可能性が高いけれど、尿管を繋ぎ直すためのもっと大きな手術に踏み出す勇気がこの時はなかったので、とりあえず様子を見ることにした。
そんなこんなで、私の体調はどんどん悪くなっていった。
チューブを入れている間は気持ち悪く、抜いた後はいつか来るかもしれない痛みに怯える毎日だった。
パニックになり号泣。叫び声を上げて会社を逃げ出す
そして、2度目の限界。
お盆前で忙しく、体調も優れない中、なんとか実家の仕事をしているのに、さらにやりたくないことを強制してくる母親。
もうできない。と、思った。
気付いたら号泣してその場を逃げ出していた。
お母さんは突然泣き出した私に驚き、私を子どものように抱きしめた。
でもパニックになったその時の私にはそれが恐怖でしかなかった…
正直に言うと、もし近くに刃物があったら、実の親を刺していたと思う。
逃げ出したくてなにか攻撃できるものを探したけれど、本当に幸いなことにどこにも見当たらなかった。
私が大声で「助けて!」と叫ぶと、お母さんの力がゆるんだので、そのまま逃げ出した。
仕事も残っていたと思うけど、本当にもう、できなかった。
親を刺そうとした自分自身にも恐怖を感じてた。
自分が持っていた仕事の道具は郵送で会社に送り、強制的に退職。
その後は、スーパーでバイトしたり個人で校正の仕事を請け負うなどして、なんとかやりくりした。
お金はそんなになかったけれど、両親と会うことがなくなり、だいぶ気持ちは楽になった。
ただ、罪悪感と劣等感はなかなか拭えない。
もちろん教会にも行き続け、私の異常なボランティア精神はどんどん加熱していった。
こうやって神に尽くしていればいつかは、お母さんも変わってくれるに違いない。そう思ってた。
罪悪感に比例して、責任や、やることも増えていき、ますます私は疲弊していった。
そして私は恋をした
この頃の私は、教会にいても本当にみじめで孤独を感じてた。
でもそれを出さないよう、素晴らしい強い女性のリーダーであることを自分に課していた。
自分より若い子たちがどんどん素敵な人と出会い、お付き合いして、結婚して、子どもを産んでいく。
私はずっと一人、孤独だった。
教会のリーダーでいるためにはクリスチャンの男性と結婚する必要があった。
それが教会のルール。
私のルームメイトは、ノンクリスチャンの男性とお付き合いしたために、外国人グループのリーダーを外されてしまった。
私にはそんなことはゆるされない。
私は牧師になるんだから…
その制度はおかしいよ、と話す外国人クリスチャンの友達もいた。
海外ではノンクリスチャンと結婚するクリスチャンリーダーなんて普通だと言ってた。
でも私にとっては、今、私が所属している教会のルールが全てだった。
それから私自身、そこまで結婚したいとは考えてなかった。
というより結婚して、いいパートナーシップを築ける自信がなかった。
誰かを好きになることすら本当に怖かった。
でもある時、同じ教会でボランティアをしている男性のことを好きになった。
当時私は、3つの奉仕グループのリーダーを束ねるリーダーにもなっていた。
彼はカフェのチームのリーダーで、私は最初、彼がまだ教会に来はじめた頃から素敵だなと感じていた。
9歳も年下だったけど。
それなりに仲良くなっていて、彼の恋の相談まで聞くような仲だった。
彼に好意があった私にとっては少し苦しくはあったけれど、そんなに信頼されていることは嬉しかった。
最終的に彼は好きな人から振られてしまって、私にもチャンスが巡ってきた。
けれど、そんなこととてもじゃないけど言い出せなくて、私のような人間が誰かを好きになっていいはずがないと思っていた。
でもやっぱり、もしかしたら、があるかもしれない。
死ぬほど悩んだ末に気持ちを打ち明けた。
悩んだというより、死ぬほど神に祈った。
この頃の私はたまに神の声を聞くことがあった。(急にスピっぽくなるけど…苦手な人はサラッと読み飛ばしてほしい)
聞くというか、心に浮かんでくる、という感じ。
この時、神は気持ちを伝えることをすすめたの。
私は神がそう言うのなら、絶対にいける!と、思った。
早速マックに呼び出して告白したんだけど…
こっぴどく振られた。
今思うとそれも当たり前かも。
当時は罪悪感と劣等感にとりつかれてたから、そんな人と一緒にいるのは、息苦しいよね。
だけど、その時はなぜこんな仕打ちを受けるのか理解できず、とてもショックで、さらに心の支えでもあった教会にも居づらくなってしまった。
そして神をも恨んだ。
誰も頼れない、私には神しかいないのに…。
こんなに神に尽くしてきたのに、なぜこんな目に合わせるのか、理解ができなかった。
私が聞いた言葉は神の言葉じゃなかったの?
疑いはじめると、教会の人のコソコソ話が聞こえてきて、こんな言葉を耳にした。
神がそんなこと言うはずがない。
私の話をしていたわけじゃないかもしれない。
だけど、私のことをみんなが陰で悪く言っているように聞こえた。
この頃から私は、自分の感覚や直感がだんだん信じられなくなっていった。
聖書にはっきり書いてある言葉に固執するようになった。
間違っちゃいけない、神学的、道徳的、倫理的に正しくいないといけない。
そんな思いがより強くなったように思う。
教会を変えても状況は悪くなる一方
私は、親と一緒に行きたいから、もっと年齢層の高い人が多い教会に移りたい。
などと言って、それまで生き甲斐のようにやっていたボランティアを全て手放し、別の教会に行くことにした。
その教会は韓国人の女性牧師がリードしていて、とても歓迎された。
牧師になりたいために教会が主宰する神学校にも通い、聖書の言葉をたくさん勉強した。
その教会には早朝から長時間賛美したり、祈る会があったため、私ももちろん参加。
最初はまだカナダ人の友達とルームシェアしていたので、家から新しい教会までは距離があった。
早朝に通い続けるのも大変だったし、牧師のすすめもあり、教会の近くへ引っ越すことに。
こうして環境をガラッと変えたにもかかわらず、私は何も変わってなかった。
牧師の言うことに全て従わないといけないと思い込み、なにか言われるんじゃないかとビクビクしながら教会生活を送っていた。
そして、集団行動が苦手な私は、案の定そこに馴染めず、空気を読めず、その場所に無理に合わせようとして、どう振舞ったら正解なのかが本当に分からなくなった。
余計にストレスをためて、外に出るのも苦痛になり、ついに教会に行かなくなくなってしまった。
二度目の出術に成功するもあまりの痛みで死を覚悟
そうこうしているうちに、やっぱりまた右下腹部が痛くなりはじめ、大きな手術を受けることになった。
さらにこの頃、ストレスのあまり、外出すると吐き気を感じるようになっていて、右下腹部の痛みも相まって、かなり鬱っぽい状態だった。
とにかく手術をすれば治ると思って、大学病院で腹部を5箇所切り、尿管を繋ぎ直して、尿を通りやすくする手術を受けた。
とても怖かったけれど、この痛みがなくなるならと、手術に踏み切った。
麻酔が切れた後、激しい痛みで気が狂いそうだった。
手術は成功していたけれど、このまま死ぬんじゃないかと思った。
でも、その時にはじめて
「死にたくない!!」
と、はっきり思った。
私はこれまで、いつも死にたいと思って生きていた。
自殺未遂やリストカットなどをしなかったのは、そんなことしたら天国に行けないと思っていたのと、単純に痛いのが嫌だったからだと思う。
でも早く死にたいという思いは、いつも心にあった。
なので、本当に死にそうになったとき、生きたいと思ったことに、本当にびっくりした。
寝返りも自力ではできず、もう、神と看護師さんを呼ぶボタンにすがるより他に何もできない状態だった。
その夜は、聖書を解説するYouTubeチャンネルをずーっとイヤホンで聞きながら痛みから気をそらせるようにして、少し眠り、起きてまた痛みに耐える、ということを繰り返した。
翌日になると、痛みはだいぶ引いていた。
術後も誰にも頼れず借金生活
手術後すぐは個室だったけれど、その後移った相部屋のおばちゃんたちが話しかけてくるタイプの人たちで、心も体も疲れ切っていた私は余裕が全くなく、本当に嫌だった。
なので、担当医に早く退院したいと頼み、1週間もせずに退院。
外に出るのもやっとだったけれど、宅食やウーバーイーツを駆使して、なんとか生き延びていた。
普通だったら親に頼るところかもしれないけれど、私はそれもできなかった。
親に会えばまたなにか言われる、否定される、怒られる。
そんな思いがあり、精神的にも体力的にも弱りきっているからこそ、頼ることができなかった。
足りない生活費は借金してまかなっていた。
コールセンター派遣で本格的な不眠→うつに
手術が終わって数ヶ月が経った頃、お金がなかったし、早く仕事をしたかったのに、なかなか決まらなかった。
ようやく決まったのが、コールセンターの派遣。
コールセンターのバイトは学生のときに単発でやったことがあり、苦手だと分かっていたものの、本当にお金がなくて仕方なくはじめることに。
研修の間は良かったけれど、だんだんと苦しくなってきて、夜眠れなくなってきた。
最初は、私、ショートスリーパーになったんだ!と、喜んでいた。
でも、だんだんと食欲もなくなり、食べていないから目眩がするようにもなって。
仕事を休みがちになり、寝れない、食べれない状態で、頭ももうろうとする中、コールセンターの仕事はもうできないと思って早めに退職の意向を伝えた。
それから心療内科に通って治療を受けた。
すると、だんだんと眠れるようにはなっていった。
でも、なんだか今までの自分じゃないみたい。
前は、ライブやイベントが大好きで、人混みも苦じゃなかったのに、誰にも会いたくないと、思うようになっていた。
仲のいい高校時代の友達とちょっと会うだけでも、ぐったり疲れてしまって翌日寝込む。
体力というか、エネルギーが本当になくなってしまって、その辛い気持ちをカウンセラーの先生に伝えたら、
「今の自分を受け入れましょう」
と、言われて余計に落ち込んだ。
今はこの言葉の意味が分かるけれど、当時はもうもとには戻れないのかと思って、ショックだった。
人生リセット!静岡へ
しばらく、おとなしく休んでいたら、体調は徐々に良くなっていったけど、くしくも時代はコロナ禍で、仕事が決まらない。
バイトさえも受からない中で、寮付きの工場求人が目に付いた。
ここで働けば、家も仕事も手に入る。
この頃、親とは何度か断絶と和解を繰り返している状態。教会にも行けず、友達にも会えず、仕事もなく、神も助けてくれない。
何もかも失ったように感じていた私は、かつて楽しく過ごしていた東京へ戻りたいと思うようになった。
でも人が多いところが怖かった。
東京に近いけど人が少なそうな場所の求人を探していて、最初は候補になかったけれど、静岡の工場求人が気になった。
静岡は雑誌の取材で一度だけ行ったことがあり、自然が多くて素敵な場所だった印象が強く残っていた。
そして、大したハードルもなく、あっさり仕事が決まり、私は富士山のお膝元、富士宮市に引っ越すことになった。
これが、本当に、大正解。
工場の仕事は、はじめは慣れなかったけれど、あまり人と話さなくても良く、内向的な人が多かったし、全国各地からみんな単身で来ていて、上司や先輩がとても親切に助けてくれた。
なにより周りに自然が多く、美しい富士山を間近で見るたびにとても癒された。
親と絶縁。はじめて感じるホッとする感覚
引っ越しと同時に親との絶縁を固く決意していたことも私にとっては良かったと思う。
連絡もせず、着信やメールも拒否して、ついに「親に気を遣う」ことを一切やめた。
私はだんだんと、元気を取り戻していった。
そしてはじめて、心からの安心を感じるように。
こんなに穏やかな心の状態があったのか!と、とても驚いた。
ホッとする場所とは、こういうことなのだな、と、ようやく知ることができた。
そんなある時ふと、心の奥底から湧き上がってきた願望が、
「幸せになりたい」
だった。
最初は、こんなこと考えるなんて、おこがましい、自分の幸せを願うなんて悪いこと、罪深いことだと思った。
それまで私は、自己犠牲こそ正しいことだと思ってきた。
自己犠牲ができない自分はダメな人間だと思って生きてきたから、自分が幸せになりたいと願うなんて、本当にそんなこと考えてもいいのかどうか、分からなかった。
でも、「幸せになりたい」気持ちをもう留めておくことができなかった。
自己犠牲に自己犠牲を重ねて、本当に頑張ってきたから、そろそろ私が幸せになっても、もういいでしょう!
それが本音だったけれど、認めるのは怖かった。
そんな時出会ったのが、「精神科医が見つけた 3つの幸福」という本。
この頃私は、メンタルを安定させるための情報収集として、著者の樺沢紫苑先生のYouTubeをよく観ていた。
そこからこの本にたどり着いたんだと記憶してる。
この本には、精神医学や脳科学からみた幸せの定義が書かれていた。
幸せとはなにか。
私はお父さんの教えから、「幸せにはなれない」と思っていたので、そんなことわざわざ考えたことがなかった。
樺沢先生の答えはシンプルで「幸せとは脳内物質である」ということ。
人間には幸せを感じると出る脳内物質がある。
つまり、この脳内物質が出るような生活習慣をしていけば、誰でも幸せになれる!そんなノウハウが詰まった本だった。
私はこの本で、そもそも生まれた時から自分の体に幸せになるための脳内物質が出る機能が備わっていたことに、衝撃を受けた。
幸せになる機能が最初からついているのなら、私は幸せになっていいんじゃないだろうか。
そうして私は、幸せになることを決めた。
樺沢先生の幸せの三段重理論を本気で実践
それから私はその本の教えに従って行動をはじめた。
まず、健康の幸せのために運動をはじめると、体調はますます、見違えるほど良くなっていった。
これまで全く運動をしてこなかったので、散歩やストレッチなど、軽い運動からはじめ、昔から水泳が好きだったことを思い出してプールにも通い、運動量が増えた。
長年悩まされていた生理痛が劇的に軽くなったことが、一番の驚きだった。
次に「人とのつながりの幸せ」を手に入れるため、将来を共にするパートナーが必要だと思い、アプリ婚活をはじめた。
少し時間はかかったけれど、静岡での婚活は楽しみながら続けることができた。
そしてついに現在のパートナーと出会うことができた。
はじめて会ったその日に告白され、順調に交際が進んでいって、ますます幸せを感じる日が増えていった。
一時は全てを失い、どん底まで落ちたと思ったけれど、幸せな人生にたどり着くことがだんだん、できるようになってきた。
転職でまた絶望の淵に落とされる
次に私は、結婚を意識し、もっと収入を上げるべく、転職に踏み切った。
私と彼の家は車で1時間以上も離れており、結婚するならもっと近くで勤務先を見つける必要があると思って。
加えて、私が働いていた工場の仕事は、1年を過ぎると寮費を自己負担しなければならなくなり、手取りが減ってしまうという仕組み。
このタイミングで転職するしかないと思っていたから、数ヶ月時間をかけて計画的に転職活動を行い、希望の月給で条件のいい仕事に巡り会うことができた。
引越し先も、職場の近くでいい場所が見つかり、とても順調に事が運んでいるように思えたんだけど…。
新しい仕事の職種は事務。苦手な仕事で、しかも物凄く忙しくて。
ある朝、布団から起きられなくなってしまった。
せっかく体調が良くなってきていたのに、またうつ病の診断。
2日ほど休んでから電話で退職の意向を伝えた。
過去最速の2ヶ月で潰れたことになる。
せっかく人生が好転してきたというのに、また振り出しに戻ってしまったような絶望感を味わった。
でもこの時、前と違っていたことは、パートナーがいてくれたこと。
彼はとても私を支えてくれ、そばに居てくれて、笑わせてくれて、私は少し休んでまた、気持ち的にはすぐに元気になることができた。
ますます本を読んで心の学びを深める
そして、この人のためにも、もう二度と同じことは繰り返すまいと、本格的に心の勉強をはじめることに。
環境が変わっても何度もうつを繰り返すのは、私自身になにか問題があるというのは薄々気づいてた。
この頃から、本を読む時、意識的に教会で習ったことを応用して読書を記録するようになった。
心に残ったとこをうつしたり、要約したり、感想を書いたりして。
樺沢先生の「学びを結果に変えるアウトプット大全」を読んでからは、よりこの読書法に自信がもてるようになり、確実にやるようにした。
アウトプットすると、記憶に定着する。
身につけたい本を、読んで、書いて、実践する。
私が聖書を読むことを通して身につけてきた、この読書法は、いい方法だったんだ!と、理論的に納得できた。
次に私が出会ったのは「決めるだけ。」という本。
女性起業家の奥井まゆさんの本で、自分の決断がどんなに人生に影響を与えるのかを知ることができたとともに、自分で起業してこんなに成功している女性がいるのか!と、驚いた。
幸せになりたい、と、考える以前だったら自分とは縁のない話だと思っただろうけど、自分もこんな風に幸せになりたいと思い、他の成功している女性の本にも興味を持ち始めた。
小田桐あさぎさんとの出会いが私の人生を激変させる
その流れで出会ったのが、小田桐あさぎさんの「「私、ちゃんとしなきゃ」から卒業する本」。
女性起業家というと、私は社会人としてそこそこ成功している人がやるものだと考えていたんだけど、この本の著者の小田桐あさぎさんは、ちょっと違っていて。
起業家になる前から、ぶっ飛んでいたし、今もかなりぶっ飛んだ考えをお持ち。(私はあさぎさん好きだけど💗)
最初は少し抵抗があったけれど、どうしても気になり、あるとき意を決してこの本のFacebookコミュニティに入ってみた。
でも、あさぎさんの講座生がライブ配信をしているのを観て、嫌悪感を抱いた。
楽しそうにお酒を飲んだり、踊ったりしている映像、海外や色んなところに住んで、色んな経験を好き放題に楽しんでる…
なにこの人達、私はこんな風にはならない…
でも、「決めるだけ。」に、嫉妬などのネガティブな感情には思い込みが隠れていると書いてあったことを思い出して、素直な気持ちをノートに書き出していたら…
実は私も、もっとこんな風に自由に振る舞いたい!と考えていることに気付いてしまった。
楽しく踊ったり、お姫様のかっこをしてみたり、世界中を飛び回ったり。
「大人なのにこんなにふざけて遊んでずるい!」
その気持ちに気づけたら、みんなのことが大好きになった。
コミュニティに参加したり、サービスを受けたりして、アサギストと呼ばれる、あさぎさんの講座生とお近づきになり、あさぎさんの魅力覚醒講座にも入ることに🍓
あさぎさんの魅力覚醒講座はマインドを教える講座で、あさぎさん自身がうつだった時に取り組んで良かったワークも盛り込まれていると聞いて、私にはこれが絶対に必要だし、やれば絶対に変われると確信できた。
さらに、講座生は地域ごとのグループで交流をするため、静岡県内の友達をつくることができそうなことにも魅力を感じた。
縁もゆかりも無い静岡に突然来てしまった私にとって、静岡で会える友達は本当に貴重な財産になった。
就職が決まるもまた1ヶ月で脱落…
そんなこんなで講座に取り組んで1ヶ月くらいがたった頃、別の会社に就職が決まった。
そしてまた、最短記録を更新し、1ヶ月で離脱。
このときも起き上がれなくなり、しんどかった…。
上司や先輩もすごくよくしてくれたのに、なにが悪かったのか…しかし、講座を通して自分の心と本気で向き合うことを学んでいた私は、自分の本心をしっかりと探っていくことに。
結果、やっぱり私は、そもそも会社に勤めたいと思ってないことに気づく。
自分のビジネスで生計を立てたい。
そんな女性起業家に、憧れを抱いている。私もそんなふうになりたい。
改めて、そんな本音に気づいた。
夢中で取り組んだ魅力覚醒講座終盤の「罪悪感ワーク」
1ヶ月で仕事を辞めてしまったことは、私にとってはかえって良かったのかもしれない。
講座内で一番きついとされている講座のキモ、罪悪感を開き直る「罪悪感ワーク」と、親の愛を受け取る「親ワーク」に真剣に取り組むことができたから。
罪悪感は私にとっていつも感じてきた感情。
講座では、この罪悪感こそが自分らしさにブレーキをかけていることを学んだ。
罪悪感がどのような感情なのかを学び、開き直っていくことで、本来の自分の本音を引き出し、ものすごく楽になったし、自分らしく生きられるようになっていった。
魅力覚醒講座のキモ「親ワーク」
親ワークは、自分が実は愛されていたことに気付くワーク。
親とのことは私にとっては大きなテーマだったから、この頃は特に感情のアップダウンが激しかった。
ワークのあと1週間は落ち込んでた。
だけど、仕事をしていなかったから、思いっきり落ち込んでしまうことを自分に許可することができたのが本当に良かった。
このワークの効果は本当にすごくて。
これまで親を敵と考えてきて、親の愛を愛として受け取ることも感謝もできなかった私が、親の愛を心で感じ、自然と感謝して受け取れるようになった。
これってものすごい革命で。
特に前半に書いた通り、私は親が好きな勉強をさせてくれなかったと思っていたけど、実は親が私の教育にお金も時間もたくさん使ってくれていたからこそ、今があることにようやく、気づくことができた。
親の愛を受け取れるようになったら、彼の愛や他の人の愛を受け取ることも、もっとカンタンになって。
自分の周りが愛にみちあふれはじめた。
私は聖書を読み、神を信じて、愛を知った気になっていたけれど、実はまったく愛を感じられていなかった。
でも、教会にいたころは愛と感謝にあふれているようなフリを続けてた。
本心と違う自分を演じることで、自分を否定して生きてきた。
でも、今は違う。
全てのものごとから愛を感じて、自然と感謝が湧いてくる。
この感覚をつかんだことで、私はこれまでよりももっともっと、幸せを感じるようになった。
講座を通して学んだ自己受容の大切さ
講座を終えた今、私は自己受容の大切さを身をもって感じるようになった。
自己受容とは簡単にいうと、ありのままの自分を受け容れる、ということ。
我慢と自己否定、罪悪感にまみれて自分責めをしまくっていた私には、そもそも「ありのままの自分」がもはやなんなのか分からなくなってしまってた。
今、考えると講座のワークは、ありのままの自分(自分の本音)を知り、受け容れるという要素がめいいっぱい詰まったものだった。
自分のネガティブな部分も、ポジティブな部分も、非常識だと思われる部分も全て、否定せずに受け入れていく。
講座終了後もこれを繰り返すことで、私の人生は、格段にラクになっていった。
これからも、私が生きやすく幸せな生き方を全力で追求していく。
それだけではなく、私の周りの人にも幸せになる方法を伝えていきたい。
家族とは、パートナーとは、幸せとは、人間とはなにか、どう生きるのか…これからも考え続けて、発信していく。
周りを見渡すと、やっぱりなにかがおかしい…
私はこうやって幸せになったけど、今の社会って、なにかがおかしいって、みんな薄々思ってるよね。
我慢や犠牲が当たり前。
なのに頑張ったって報われない。
なくてはならない仕事をしてる人の報酬は少ない。
給料は上がらないのに生活費は上がってく。
みんなが我慢しているから、あらゆる種類のハラスメントが横行してる。
家庭内すら安心できない。
なにかがおかしいよ。
でも嘆いてるだけじゃなんにもならない。
以前の私は、親や政治や社会や環境のせいにしてた。
その方がなんだかんだ、楽だから。
被害者だもん、弱いもんね。
でも、今の私はそのままでいたくない。
私だって、みんなだって、ひとりひとりがものすごいパワーを持ってることに気づけたから。
今、自分は弱いと思ってる人たちの意識を変えていきたい。
勇気を出して、我慢や妥協や自己犠牲はもうやめようって伝えたい。
私たちひとりひとりはそんなことのために生まれてきたんじゃないから。
そんな扱いを受け入れていいはずないんだから。
私だって怖がりでコミュ障でビビリだからあんまり大きい声では言えない。
でも私が変われたんだから、変われて幸せになれる人がもっともっといるはず✨
私の本名は「知世」というんだけど。
世の中を知って
世の中に知らせる
そういう命の使い方をしていきたい🍓
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そして冒頭でもお知らせした通り、ともちゃ版「魅力覚醒講座」を開講します☺️
あさぎさんの講座が集団授業なら、私のは個別指導塾。
一緒にしっかりワークをやっていきながら、さらに深掘っていくので
「ワークやってみたけど…だから何?」
ってことにならないよう、一対一でバンバン本音を垂れ流して、気づきを促していく。
個別の講座なので、スタートのタイミングは人それぞれでいい。
もし、興味があればともちゃ公式LINEから、まずは無料講座「人生を激変させる欲望の叶え方」を受講してね。
魅力覚醒講座の最初にやる「欲望リスト」のワークを体験できるよ。
というか「欲望リスト」のすごさは本当にたくさんの人に体感してほしい!
欲望を書くって、こんなに簡単なことで、自分が持つものすごいパワーに気づけるワークって他にない気がする。
そして、感想を教えてもらえたら、飛び上がって喜びます🙏🍓
まとめ
第1版、第2版に比べると、書くことに迷いがなくなってきてる気がする。
旧版はこちら↓
あとは、教会や神について、モヤモヤしてたことを言語化したことで、かなりわだかまりが解消された。
そしてこの頃は「神との対話」という本に出会ったことで、自分の中で神とはなにか…ということがようやく確立してきた部分がある。
私が必死になって聖書を学んできたことの意味も、ようやく納得できる答えが出はじめてきた。
この辺書くと長くなるので、また別の機会に…
めちゃ長くなったけど、読んでくれてありがとうございました☺️🍓
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